民話が
伝えるメッセージ
文化探訪コラム
輪之内町に伝承される35の民話
民俗学の創始者・柳田国男の遠野物語に『座敷わらし』という有名な話があります。座敷わらしは、伝承される地方によって差こそあれ、一般的に古い大きな家の奥座敷に住んでいるとされています。姿は見えないけども子どもの足音を響かせたり、宿泊者の枕をひっくり返すなどのいたずらをしたりする、おちゃめな神様という印象を私は持っています。また、その姿を見た人は幸福になるということから、幸福の神様として今なお愛され続けられているのも有名ですね。
こうした民話が今に語り継がれるのには、史実や先人の教訓が含まれている側面が多大に影響しているとされています。この輪之内町には実に35の民話が伝承されています。輪之内町の民話について、自分なりに史実や教訓を探してみたくなり、民話の舞台となった地へ私は繰り出してたのです。
水辺への畏敬や魚への感謝
役場の西側にある江川の下流に大榑川との合流点の渕や、西側の揖斐川との合流点にある渕には漁にまつわる『堤の赤じじ』や『大榑川の竜宮』などの民話が残っています。そのどれもが、漁をしていた漁師が川のヌシである赤じじ(年をとった大きな緋鯉)であったり、神様であったりにお仕置きをされて漁が出来なくなってしまうものです。
当時、このあたりは今のように家が立ち並んでいることもなく、竹やぶや雑木で覆い茂り、川面に光が差し込むことも少なかったようですから、今よりよっぽど深い淀みをたたえていたことが想像できます。きっと、注意して行動しないと危ない環境だったのに違いありません。大正の頃までは、体長1mをゆうに越す鯉が数多くいたそうですから、本当に赤じじなるようなヌシがいたのかもしれません。
輪之内町の文化から考えてみると、このような民話には、渕に不用意に近づかないための注意喚起や、魚肉としての貴重な恵みを与えてくれる魚たちへの感謝といった、水とともに生きる人々の気持ちが色濃く感じられます。水害に悩まされながらも、その元凶である大河への感謝も忘れない先人たちの強固な心に胸を打たれます。
ヤマトタケル伝説に古の交通路を思う
川筋に沿って西に向かうと揖斐川の大きな堤防があり、養老山地を背景とした揖斐川の対岸が見えてきます。明治の三川分流工事以前、このあたりには塩喰村という大きな中州の村があったそうです。
そこからさらにさかのぼること数千年。滋賀県米原市と岐阜県関ヶ原町にまたがる伊吹山で賊退治をしたヤマトタケルが、塩喰の鵜の森に立ち寄って休憩したという伝説があります。これだけ聞けば、単に神様が休憩した場所という印象しかありませんが、あながち単なる伝承であるとは思えません。その理由には、関が原方面から流れる牧田川は途中揖斐川に合流して塩喰とつながっていること。輪中が必要なくらい激しい流れの川があったことから、ヤマトタケルは水運を活用して移動しつつ、当地で休憩をとった模様を思い浮かべることができます。
神様も休みを取りたくなるような激しい大河の流れ。その大河に対する脅威の念がこの民話から伺えます。ひょっとすると休憩するヤマトタケルは、川の脅威におびえて鵜の森に逃げてきた人々の気持ちの表れかもしれません。ゆったりと流れる現在の川を見たら先人たちは何を思うのか、しばし時間を忘れて立ち止まってしまいます。
関が原合戦前哨戦のはなし
現代と近い民話には戦国時代のものもあります。揖斐川の川底には福束城が沈んでいると伝えられています。関が原合戦緒戦の舞台となったが福束城の城跡は、明治の三川分流工事の時に河川敷となり、痕跡は完全に消えてしまいました。
この福束城の城主であった丸毛兼利(まるも・かねとし)は関が原合戦では西軍についており、大垣城の東の防衛線として福束城に立てこもります。そして、城の東側にある大藪周辺で、福束城方3000に対して東軍多数という分の悪い戦況のなか激戦が展開。最終的に丸毛兼利も大垣城へ逃げ込み、戦に敗れます。その合戦が終わり、世が落ち着きを取り戻した頃、大藪には合戦の戦死者を弔うために「北塚」が建立され、今も現存しています。
輪之内町から北西を臨むと、養老山地のはざまに関が原が見えます。輪之内町付近で激戦を展開した両軍は、勝者も敗者も舟を出して入り乱れた大河を渡り、関が原で決戦したのでしょう。
北塚には、今も花や水が供えられています。遠い祖先の心を今も忘れない方々へ敬意の念を感じるとともに、この無縁の霊を祀った塚が年月の経過とともに風雨に崩れていく姿を見ると筆舌し難い感情に包まれます。
民話とともに風景を酔いしれる
輪之内町に伝承される民話。その民話には川とともに生活を送る人々の想いがたくさん込められています。目の前に広がるのどかな風景も、そのような民話を通してみると、実に味わい深いのです。
所要時間:2時間
シーズン:春~冬
文化財数:5個