スマホで
ノスタルジック
文化探訪コラム
流れがないのに「川」と呼ばれる大榑川(おおぐれがわ)
川というものを考えると、誰もが水が流れる印象を抱くでしょう。でも、輪之内町にある大榑川には流れがありません。不思議に思って地元の人に尋ねてみると、「その理由はスマホを使えばわかるよ」とのこと。私は、ちょっとした謎解き気分で、大榑川へ足を運んでみました。
町役場から中江川沿いに南に進み続け、大榑川にかかる橋を渡ると、目の前に輪中堤が見えてきます。これは、お隣・海津市の外環部を囲う「高須輪中」の輪中堤。輪之内の地域にあった福束輪中の隣の輪中でした。大榑川とは、この2つの輪中の間に存在した川で、かつては東の長良川から西の揖斐川に水を流れ落としていたのです。
高須輪中堤上の道路から輪之内方向を眺めると、大榑川の向こうに広がるのどかな水郷・輪之内町の情景を、他のどこの場所より魅力的に望むことが出来ます。
ただし、昔と大きく違うことが2つあります。ひとつは「昔は流れがあったが、現在は流れがないこと」。もうひとつは「輪之内町側に輪中堤が無いこと」です。その理由は、大榑川沿いに上流の長良川方向に向かうことでわかります。
スマホで見れば一目瞭然。かつて流れていた川のカタチ。
自動車があまり通らない道からの情景を楽しみながらのんびりと進んでみましょう。3kmほど進み養鶏場のあたりまでいくと、ずっと左側にあった大榑川が見えなくなってしまうのに気づきます。今は川の面影を感じることはできませんが、かつてはここにも数m以上の川幅を持つ大榑川が存在していたそうです。そして、その流れは強く、勢いを持って東から西に流れていたと言います。現在、水田が広がっている場所が川だったのです。
今回のマストアイテムであるスマホで、この場所の地図を開いてみましょう。「航空写真モード」に切り替えると、現在の大榑川の先に周りと比べて明らかに不自然な形の田んぼが続いている部分があるのが分かります。その部分こそ、輪中ができた明治時代以前の川の場所。その場所は現存する高須輪中堤に寄り添うように、曲がったり、ふくらんだり、細くなったりしながら続いています。ずいぶんと複雑な流路の川だったようです。
そのことについて後日詳しく調べてみると、川が田んぼになったのは明治末期。頻繁に繰り返された河川の氾濫を根本的に解決するため、複雑に絡み合う河川を分流して流れを整える「木曽三川分流工事」実施された時のことです。
それは、政府お雇い外国人技術者ヨハニス・デ・レーケの指揮のもと、全体としては20年の歳月をかけて行われた明治時代の大事業でした。多くの労働者の手作業によって大榑川の約半分が埋め立てられ、福束輪中と高須輪中は陸続きとなったのです。
はるかなる昔から多くの同郷人が飲み込んできた暴れ川そのものを自らの手で克服した人々の安堵の気持ちはいかほどだったことでしょう。現代を生きる我々には難しいほどの喜びだったのではないでしょうか。
かつての暴れ川の上に拓かれた新しい水田で、嬉々として田植えをしていたであろう当時の人々の情景が脳裏に浮かびます。
昔の写真に見る架橋のよろこび
高須輪中堤をそのまま進むと長良川の現代の堤防に接続します。その上流側には1988年に完成した大藪大橋がかかっています。はるかなる昔から輪之内町と外界を結ぶ交通手段は舟であり、明治に至ってもそれは同様でした。
明治末期に南北両隣の輪中と地続きになることで輪中内の道路の改良が始まるのですが、架橋によって両隣の町と陸続きになるまでにはさらに20余年後を要したといいます。1933年、国道21号線にできた長大橋の開通式の写真を見ると、当時の町の人があふれんばかりの笑顔で橋を渡っている様子が見受けられ、その喜びの大きさがわかります。
しかし、橋がかかった当時でも、輪之内に一歩足を踏み入れれば、そこには輪中地帯特有の深い堀田(ほりた…水深1~1.5mもある泥の田んぼ)が広がり、そこは田舟(たぶね)を使わないと何も出来ないような環境だったそうです。こういうことも「今よりほんのちょっとだけ昔の」輪之内の日常でした。
輪中という環境だったからこそ育まれた生活文化や知恵、エピソード。ちょっとだけ注意力を働かせれば、町の中いたる場所で、「なんか変わってるな」というものに気付けるはずです。大いなる水の流れの中の真っ只中で、常にダイナミックな環境変化と共にあり続けた輪中・輪之内の面白さを体感してください。
民話とともに風景を酔いしれる
輪之内町に伝承される民話。その民話には川とともに生活を送る人々の想いがたくさん込められています。目の前に広がるのどかな風景も、そのような民話を通してみると、実に味わい深いのです。
所要時間:1時間
シーズン:春~夏
文化財数:3個