慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原合戦があった。当時福束城には石高2万石、丸毛三郎兵衛兼利が居城していた。福束城は揖斐川沿いにあり、舟運の便がよく、重要な地点であったので、東西両軍から誘われたが、丸毛氏は豊臣秀吉と親しかったため、西軍に加わった。関ヶ原合戦の前哨戦と言われる8月16日の夜半、東軍がひそかに大榑川を渡り、楡俣村、十連坊村の集落に火を放ち、西軍を急襲した。西軍は必死に戦ったが破れ、福束城は落ちた。多くの両軍の兵が原野を血に染め、傷つき倒れた。戦いの後、村人は勝者、敗者の区別なく、遺骸を葬り、石仏を建て塚を築き墳墓とした。
この地が大藪の北部に位置するので、いつしか「北塚」と呼ぶようになり、今でも花や水を供えて弔っている。北塚は郷土の歴史をひそやかに語り続ける史跡である。ひとりでも多くの人が心を寄せ、理解を深め、保護に貢献し、郷土の史実にもとづいて意義を思索する場である。北塚は立派に整備された郷土の史跡としても貴重である。