岐阜県輪之内町 〜輪中が息づく平らな町〜

HERITAGE 輪之内文化財

化財紹介

楽譜がなく250年以上伝承され続けるお囃子

昔は青年団がごまんど祭りの中心となって祭りの準備やおはやしの練習をしたそうです。その頃の青年団は、村から「宮地」と呼ばれた三反(約30a)の田をもらい、そこから得た収入で祭り必要な経費を賄っていました。そのため、家の仕事の間に、宮地の仕事をみんなで行いました。田植えが終わる頃になると、「今年も豊作になるとええなあ。そうなったら祭りも盛大にやれるしなあ。」「おはやしの練習はいつからしようか。」などと祭りの話でもちきりになったそうです。祭りのおはやしは、「矢車」・「豊後下がり」・「津島下がり」・「詞車」・「八畝十八歩」・「お亀の舞」の6曲ありました。しかし、楽譜といったものはなく、今までの自分の耳で聞いた音だけが頼りです。兄若衆の笛や太鼓の音色はとてもすばらしいものでした。

しかし、手をとって教えてはもらえません。上手な兄若衆の音色を聞き、手の動きをまねながら自分でつかみとっていくより仕方がなかったのです。だから、少しでも上手になろうと真剣に取り組んだものでした。それは、祭りの心を伝えていく神聖な行事であったといえるものでした。祭りの日が近づくと、提灯やのぼりの修理が行われ、練習にも力が入ります。

2、3日前には、いよいよ祭りの準備に入ります。境内をきれいにはき清め、幕をはり、
「大神宮福束輪中総氏子」と書かれたのぼりを立てます。さらに、やぐらを組みます。やぐらの高さは、3メ-トルほどですが、
その上に太鼓や人が乗る八畳ぐらいの広さの場所がつくられます。風にはためくのぼりの音で、村内の祭りム-ドは一段と高まります。

さて、祭りの当日、式がはじまるのは日暮れです。黒紋付きに羽織り・袴・白足袋で身を固めた一行が、太鼓を台車に乗せ、「矢車」を演奏しながら
海松新田の三地区(上、中、下)から出発し、それぞれ明教寺(戦前は、この地区の庄屋であった牧野家にも寄りました。)に向かいます。
明教寺によるのは、海松新田の開祖である粕谷忠左衛門の御霊がまつってあるからだということです。
明教寺に近づくと、おはやしは「八畝十六歩」・「お亀の舞」に変わります。明教寺で三地区がそろうと、「矢車」・「豊後下がり」・「津島下がり」・「詞車」が一斉に演奏されます。

そして、三地区の代表が宮総代の前に進み「これから祭りを渡らせていただきます。」というあいさつをし、
「詞車」・「八畝十六歩」・「お亀の舞」を演奏した後、宮総代を先頭に、「ごまんどさん」へ向かいます。
高張り提灯・十二燈(12個の提灯)・太鼓・笛の順に「矢車」を演奏しながら進みます。

神社の鳥居に近づくと、おはやしは「八畝十八歩」に変わり、「お亀の舞」で鳥居をくぐり、社殿の前まで進みます。
各地区の太鼓が並べて置かれた後、明教寺で行った順序でおはやしが奉納されます。
儀式が終わると、太鼓が櫓に上げられ、「デンガラシ」・「おんど」「白川おどり」と打ち鳴らされ、人々はそれにあわせて、夜がふけるまで踊り続けます。
戦前は、福束輪中の人はもちろん海津や養老の方からも人が集まり、踊りの輪は大きくふくれあがり、境内はたいへんにぎわったそうです。
しかし、戦後、青年団に参加する人が少なくなるにつれて、祭りはさびれはじめたぼかりか、笛や太鼓の後継者がなくなり、地域の悩みとなりました。
何とか祭りの伝統を守りたいという強い地域の願いのもとに、二十年ほど前から後継者の育成に力が注がれはじめました。
対象は小学校4年生から中学校2年生までの男子です。子どもの練習は、楽譜づくりからはじめられました。楽譜づくりといっても五線譜に階名を
書くのではなく、ウ-ヒリィウ-、ヒリィウ-、ヒリィウ、カンカン・・・」といった、おじいさんの耳に
残っている調子を言葉で書き表すのです。さらに、その言葉の左右に「○」と「●」の…をつけて、太鼓のたた
きかたもしめしました。「○」は太鼓の皮をたたき、「●」は太鼓のへりをたたく記号です。
このような楽譜が作られたことによって、みんなで練
習できるようになり、はじめ音が少しもでなかった子どもでも、毎日の
練習で夏休みが終わる頃には、「矢車」がじょうずにふけるようになりました。
今、ごまんど祭りの日には、子どもたちが胸を張って、様々の曲を奉納
しています。250年余の伝統が、立派に受け継がれています。

場所
岐阜県安八郡輪之内町海松新田
文化財指定
町指定/民俗芸能
昭和62年5月28日