福束大橋をはさんで、南北に延びる住宅地。明治時代の20年代から40年代にかけて、木曽三川分流工事の一環として、揖斐川の流れを真っ直ぐにするために、堤外にあった240戸のうちの150戸が、強制的に移転対象になり、堤防の下にに沿って宅地を造りました。南向きに住宅が並んでいることから列状集落と呼ばれます。