江翁寺の縁起は、万治2年(1659年)に江翁寺住職天隣玄瑞が記した。縁起には、「往古依来、渺 々たる葦原にて、ただ鳥獣の栖む有るのみ、かって生民の居る所に非ず。(中略)時は元和元年の年、岡田善同、この地を守護す。公始め彼の広々たる葦原を見る。将軍に上告して直ちに命を受け、葦原を切り開いて稲田を作らんと欲す。(中略)この故に、元和七年辛酉に至って可長(北村可長といい、岡田善同の家老)善同公の命を受け、外には堤を築いて柳を植え、内には土を搬んで葦を刈る
者幾千万数なるをを知らず。水治まりて、地平にして公田を耕開し云々」とある。

元和7年(1621年)から幕府代官岡田将監善同の命をうけて、家臣(家老)北村庄兵衛可長が楡俣新田の開発を指揮、また、承応3年に可長の冥福と里民の安全、繁栄を祈り、この地に江翁禅寺を建立した。かくして新田開発に着工した時期は元和七年とある。寛永元年(1624年)、同2年に楡俣新田、上大槫新田の他6新田が岡田将監の検地を受けている。この縁起は福束輪中の貴重な新田開発資料で、楡俣新田開発時の模様がつぶさにみえる。