崇文舎(崇文義校)は、明治6年5月5日、福束新田・中郷新田・藻池新田、塩喰の4ヵ村の連合で、福束新田の乗願寺を仮校舎として、創設された。翌々年の明治8年には福束新田に新校舎を建築し、崇文学校と改称した。

新校舎は、木造2階建て、切妻造桟瓦葺、教室は4教室である。校舎前に道路から階段をつけ、周囲を板塀崇文舎(崇文学校)木額や木の棚で囲っている。「崇文舎」木額は野村藤陰の筆、野村藤陰の本名は野村煥、藤陰は号である。大垣藩校の教員を務めた後、興文義校、岐阜第一中学校、華陽学校の教員を務めた。

校名の崇文とは、「文字を大切にして丈夫なよい子になるように」という願いが込めらている。明治24年10月28日、濃尾大地震が起き、校舎がたおれてしまったので、翌25年には、民家を借り授業を再開した。明治26年10月に前より大きくて丈夫な校舎を建てた。その後明治36年5月12日に仁木尋常小学校ができるまで続いた。