慶長5年(1600年)の関ヶ原での東西両軍の戦いは9月15日早暁に始まり激しい戦いが続き、東軍の大勝利で終わった。この時、徳川家康は、各地の民衆を安心させるため禁制を下した。現在6通が残っている。その1通がこの禁制である。福塚村(福束)、中郷村、里村、なんばの村(南波)、上大くれ村(上大槫)宛に出したもので、日付は、慶長5年9月23日である。

この禁制は、合戦下にありがちな①兵士民衆の乱暴狼藉 ②放火 ③田畑の作物荒らし、加えて竹、木の伐採を厳しく禁じ、違犯の者は直ちに厳しい罪科を処断するとした。なお、禁制・禁札は、本来領主が地方安堵のため出す積極的なものであるが、現実には特に合戦直後の場合などは、その土地の名主達が戦勝を祝って金子や食糧を陣中に届け、自分の支配する地域の安全のために要請して貰い受けたものが多かった。

徳川家康禁制朱印状がどのようにして現在棚橋家にあるかは詳ではないが、関ヶ原合戦直後、家康の禁制朱印状という価値とともに、四百年の昔、輪之内北部棚橋家を中心とした大勢力のあった地域の実態、関ヶ原合戦と当地方の関係等を説明する貴重な資料である。