大榑川はもともと長良川の水行をよくするために、長良川と揖斐川を結んだ人工川であるが、両川の川底の差が八尺もあったため、洪水ごとに、長良川の水が大榑川に奔流して、福束・高須の両輪中に氾濫した。また、江戸時代に入ると、新田開発が進められ、今まで遊水池となっていた土地が減り、洪水が頻繁に起こるようになった。そのため、福束輪中の村々が大藪村と勝村との間に、石堰を築き、締め切る工事を願い出たところ、寛延三年(1750年)10月、大槫川喰違堰の設置工事の許可がおり、翌年1月から農民の手による工事が行われ、喰違堰(くいちがいせき)完成させた。

喰違堰は、大藪村側から長さ58間、勝村から87間の石堰をそれぞれ常水面より、一尺八寸高く築いたものである。しかし、大槫川喰違堰を設置しても規模が小さく水の勢いを押さえることができず、十分な効果が得られなかったため、宝暦三年(1753年)12月25日、幕府は大規模な治水工事を薩摩藩にお手伝い普請として命じたのであった。薩摩藩による大榑川の築堰は、寛延四年(1751年)に関係輪中の自普請で築いた大槫川喰違堰から下流48間の地点に 堤の長さ98間、石堰高さ4尺、堤敷23間の青竹造りの蛇かご石積みの洗堰である。この洗堰は長良川の水かさが二合までは石堰で遮られるが、それ以上になると水は堰を超えて大榑川に流れ込んで、両川の水勢いを緩和する設計であった。宝暦4年11月に着工して、同5年3月28日に薩摩洗堰(さつまあらいぜき)が完成した。

しかし、この洗堰完成後半年とたたない宝暦5年5月28、29日頃の出水で洗堰西岸大藪村方外畑が長さ九十間、幅五十間ほど決壊流失し、新しい河道ができた。そこで再度調査が行われ、自普請で宝暦七年7月から新たに薩摩堰より上流110間余のところに長さ78間の洗堰を築造する工事をはじめ、翌8年3月に大槫川洗堰が完成した。以後明治32年大榑川の締切堤の完成するまで約150年間、長良・揖斐両川の制水の役割を果たし、福束・ 高 須 ・ 多 芸 輪 中 を 水 害 か ら 守 っ た 。

なお、寛永8年に完成した大槫川洗堰は平成10年より埋蔵文化財包蔵地に追加された。現在大榑川は廃川となり、川底は払下げられて民有地となって開墾され、当時の洗堰は田面から没して、その面影を見ることもできないが、今も三、四尺掘れば往年の石積みを見ることができる。

その場所に「薩摩堰遺跡」の記念碑が建てられて、その偉功に感謝の意を表している。