幕末期の大阪文楽の花形で、現在の岐阜県岐南町を中心に一世を風靡した三宅文楽の創始者でもある初代豊松清十郎の墓碑である。初代清十郎は人形遣いの花形として幕末の大阪で活躍。しかし、1841年に始まった天保の改革で、華美の戒めとして上方を追われ、知人を頼って現在の岐南町三宅に流れた。地元の義太夫愛好者の保護を受け、岐阜近郊から東海一帯に三宅文楽を広めた後、明治4年(1871)年8月15日、浜松巡業中に客死した。跡を継いだ二代目清十郎は大阪文楽座の再興とともに、上方へ凱旋。一方、三宅文楽は大正元(1912)年ころ、後継者がなくなり廃絶してしまった。

現在では岐南町内にも墓があり、人形の頭が六つ、名残をとどめるだけであるという。清十郎の墓は、浄光寺山門わきの経蔵前に、高さ約1.8メ-トルの自然石で建立されており、願主は「上組社中」と記されている。墓石のまん中に「釈諦」という法名が、わきに俗名の豊松清十郎の名がある。上組というのは福束輪中内にあった二集落。三宅文楽全盛期、初代は境川から長良川へ通じる水運を利用して、しばしば現在の輪之内町内でも文楽を公演していたと伝えられ、二十年ほど
前までは勧進元の富豪の家にも頭が残されていたという。