現在、海松新田の中江川に「四間樋橋(しけんひばし)」が、西江川には「三間樋橋」がかけられている。橋の名称は、この場所に四間樋、三間樋が設置されていたことに由来するものである。この門樋は、輪中内の悪水吐きに大きな役割をはたしてきた。また、大槫川の増水時には逆流をを防いできた。この四間門樋は江戸時代につくられ、最初二間樋七艘(約14間)の大きなものであったが、その後修理が大変だったことから、三間艘一艘と二間樋二艘に縮めたという。このため悪水落ちが悪なり、その上破損したまま放置されていた。そのため、福束輪中の代表が明治10年(1877)3月、岐阜県令に現地調査をし、県の予算で四間門樋をつくってほしいと願い出た。
その結果、明治12年3月14日、県令より四間門樋新築の許可が出た。
四間樋は、輪中代表の片野萬右衛門が明治11年に設計図をつくり、これを名古屋の材木商板屋小十郎が総額2,166円 でひきうけた。この門樋の工事は、明治14年の「安八郡町村略誌」の記事や古老の話から、明治12年に始まり、一年後の13年に完成したと考えられる。工事費は、門樋と周辺部の掘割諸費を含め7,493円であった。代表の中でも中心的な立場にあった萬右衛門の献身的な努力により、それ以後輪中のたまり水による被害は少なくなった。その後、大榑川の締め切り、兎閘門の設置等により、門樋の働きはうすれ、大正11年(1922)に取り壊され、二つの橋がかかった。