伝右衛門は寛保元年(1741)に西条に生まれる。十七歳のときに大垣藩主伊藤作之丞政明の養子となる。第七代大垣藩戸田氏教に重用され、安永2年(1773)には大目付役に進み、同年郡奉行加役になる。天明元年(1781)には、郡奉行本役となる。当時は、大垣輪中の悪水がすべて南部に集まり、最南端の横曽根村地内で揖斐川に放流していた。
しかし、土砂の堆積により揖斐川の河床が上がり、排水ができなくなってきたため、悪水がたまり、数年に一度しか満足な収穫ができないという状況だった。そこで、揖斐川の川底にトンネルを掘って揖斐川の水を排水させるという鵜森伏越樋に着手することになった。伝右衛門は、伏越樋御掛を任ぜられ、工事を監督することとなった。工事は、天明3年(1783)から同5年(1785)までの三年をかけて完成した。ところが、設計ミスで工事をやりなおし、天明5年(1785)に完成をみた。
工事の完成した5月23日に伝右衛門は自宅で自害する。天明5年(1785)に鵜森伏越樋の工事を担当し見事に完成させが、農民出身の伝右衛門の手柄をねたんだ者が樋管の排水を悪くするように障害物をなげこんだりする迫害を受け、死をもって身の潔白を貫いた。死に際し家族に遺書を残した。遺書には家族の行末を気づかう細やかな心情を認めている。明治41年、塩喰白山比売神社に大垣輪中水害予防組合は、「殺身仁民」と刻んだ顕彰碑を建て讃えた。ついて大正6年、国は従五位を追贈した。現在顕彰碑は258号線沿いの伏越樋近くに移された。