舛屋伊兵衛は宝暦治水工事の際、人柱になった人物。伊兵衛は多良(養老町多良)の生まれで、わけあって江戸に住み、高木内膳の家来になった人である。大槫川洗堰が築かれるときなくなり、高木内膳の頼みによって円楽寺に埋葬された。なお、円楽寺にある墓には、「宝暦五乙亥年三月廿九日、法名釈誓終往生、俗名武州江戸神田紺屋町舛屋伊兵衛」と書かれている。

伊兵衛の話は、大槫川洗堰工事が進められているときである。大槫川の洗堰築造には、大槫川の分岐点をせき止めなければならない。ところが、大槫川と長良川の川底は2.5mの落差があって、落ち合うところは、激流がうず巻いて荒れくるい、仕事はなかなかはかどらない。出水のときは、水の勢いも加わって、せっかく築き上げた堰を流してしまうことがしばしばおこった。

ついに、工事に携わった薩摩藩士が割腹する者もでできた。三之手の出張小屋では相談が続いた。この相談に加わった舛屋伊兵衛は、心中期するところがあって口を開き、「この工事が進まないのは、水神の怒りによると思う。人柱を立てたらどうだろう」と提案、ひたすら工事の完成を願う藩士たちも、思いかけない伊兵衛の意見に驚きながらもその考えに賛成した。続いて伊兵衛が言った。「さて、人柱だか、この中で袴のすそにほころびのある者が人柱になろう。」
みんなが互いにすそを調べた。たった一人伊兵衛のすそがほころびていたので、「よし、言い出したからには、わしが人柱になる。」と、身を清め白衣をまとうと渦巻く激流に身を投げたのである。そして、宝暦五年(1755)三月二十八日洗堰の完成をみたのである。