宝暦治水工事の際、薩摩堰築造時の出小屋を提供した地元の豪農山崎八左衛門と薩摩義士俳号、桃山との情愛あふれる交遊を偲ぶことができる遺墨である。楚垂子とは山崎八左衛門の俳号であろう。工事竣工後帰国にあたって桃山氏が楚垂子に送った遺墨である。文中「二年越の逗留中、楚垂子の風雅な待遇に労働の疲れを癒すことができた」と喜びの辞を述べ、山崎家の隆昌を祈って俳句を一句添えている。
薩摩堰の築造は宝暦治水工事より難事業であった。工事現場近くに居住し、出小屋を提供した山崎家の当主が薩摩藩士等に対し、日々如何に接してきたか窺うことができる資料である。また、当町唯うかがう一の薩摩藩主の遺墨である。