徳川九代将軍の時、お手伝普請を引き受けた薩摩の平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行とするいわゆる宝暦治水工事に従事した武士の霊を祀る墓である。
薩摩藩による宝暦のお手伝い普請は大変な難工事であった。「薩摩堰」は長さ180m、高さ約1.2m、堤敷約42mという巨大な石堰である。また、この地点は、長良川が大槫川に注ぐ分流点で川底が2m余も低いため、激流渦巻く深みになっていた。そのため、宝暦治水の4年前に地元民は食違堰や猿尾(さるお)を築いて洪水制禦(せいぎょ)をはかった。このような難所に構築する洗堰工事に藩士たちが、一番難儀したのは、瀬切るために使用する資材の調達で、特に石材や木材は幕府の指定した遠くからの買い付けを強いられた。
また、7月から10月にかけ膨大な資材を入手し、工事を急げと叱咤され、費用は予想を超える出費となった。なお、工事は11月半ばにはじめ12月中に完成せよという苛酷な命令に加えて、古舟に石を積み激流の中に沈める下埋め工事は決死の作業で熾烈をきわめた。この工事中に犠牲者として7名の人が帰らぬ人となった。これらの武士は、何れも切腹して相果てたことになっているが、その原因は何であったのか、仕事が思うようにはかどらなかったのか、あせりか、責任感からか、何時完了するとも見通しのつかない仕事へのはかなみか、あるいは、検査役人から工事の不備であることを指摘されたかは詳らかではないが、異郷に割腹して果てた義士の恩恵をかみしめて、毎年薩摩義士顕彰会で慰霊祭をおこなっている。