伊藤伝右衛門は西条村の庄屋西松権兵衛の次男として誕生。27歳で家督を継ぎ、伊藤家四代として伝右衛門政敦を襲名しました。
伝衛門が家督次いだ頃、大垣輪中南部では排水が機能せず、数年に一度しか満足な収穫ができない状況でした。
この事態を重く考えた七代藩主である戸田氏教は、幕府に願って「鵜森伏越樋」の建設に着手することとなります。
この鵜森伏越樋は、揖斐川の川底の下にトンネルをつくって揖斐川の水を排水させるというものです。伝右衛門は伏越樋御用係を任ぜられ、工事を監督しました。
工事は天明3年(1783)から5年(1785)までの3年の月日をかけて完成。
しかし、工事が完成した天明5年5月23日、伝右衛門は自宅において自刃してしまいます。
伝右衛門は手柄をねたんだ者に、様々な迫害を受けたという説もありますが、本当の理由は違うように想われます。
伝衛門は工事を公儀普請に組み込むために運動費として不正を非難されるのを覚悟の上、名主と自分の分を加えて七十両を調達していますが、
それを幕府役人に遣わして着手したことも遺言に見られます。
そのため、工事が成功しなかったことを機会に避難の的となったことの責任をとったとも考えられています。