昔は青年団がごまんど祭りの中心となって祭りの準備やおはやしの練習をしたそうです。その頃の青年団は、村から「宮地」と呼ばれた三反(約30a)の田をもらい、そこから得た収入で祭り必要な経費を賄っていました。そのため、家の仕事の間に、宮地の仕事をみんなで行いました。田植えが終わる頃になると、「今年も豊作になるとええなあ。そうなったら祭りも盛大にやれるしなあ。」「おはやしの練習はいつからしようか。」などと祭りの話でもちきりになったそうです。祭りのおはやしは、「矢車」・「豊後下がり」・「津島下がり」・「詞車」・「八畝十八歩」・「お亀の舞」の6曲ありました。しかし、楽譜といったものはなく、今までの自分の耳で聞いた音だけが頼りです。兄若衆の笛や太鼓の音色はとてもすばらしいものでした。
しかし、手をとって教えてはもらえません。上手な兄若衆の音色を聞き、手の動きをまねながら自分でつかみとっていくより仕方がなかったのです。だから、少しでも上手になろうと真剣に取り組んだものでした。それは、祭りの心を伝えていく神聖な行事であったといえるものでした。祭りの日が近づくと、提灯やのぼりの修理が行われ、練習にも力が入ります。
2、3日前には、いよいよ祭りの準備に入ります。境内をきれいにはき清め、幕をはり、
「大神宮福束輪中総氏子」と書かれたのぼりを立てます。さらに、やぐらを組みます。やぐらの高さは、3メ-トルほどですが、
その上に太鼓や人が乗る八畳ぐらいの広さの場所がつくられます。風にはためくのぼりの音で、村内の祭りム-ドは一段と高まります。
さて、祭りの当日、式がはじまるのは日暮れです。黒紋付きに羽織り・袴・白足袋で身を固めた一行が、太鼓を台車に乗せ、「矢車」を演奏しながら
海松新田の三地区(上、中、下)から出発し、それぞれ明教寺(戦前は、この地区の庄屋であった牧野家にも寄りました。)に向かいます。
明教寺によるのは、海松新田の開祖である粕谷忠左衛門の御霊がまつってあるからだということです。
明教寺に近づくと、おはやしは「八畝十六歩」・「お亀の舞」に変わります。明教寺で三地区がそろうと、「矢車」・「豊後下がり」・「津島下がり」・「詞車」が一斉に演奏されます。
そして、三地区の代表が宮総代の前に進み「これから祭りを渡らせていただきます。」というあいさつをし、
「詞車」・「八畝十六歩」・「お亀の舞」を演奏した後、宮総代を先頭に、「ごまんどさん」へ向かいます。
高張り提灯・十二燈(12個の提灯)・太鼓・笛の順に「矢車」を演奏しながら進みます。