江戸時代の多良街道(現在の県道大垣-高須線)の道幅は四尺ほどのせまい道であった。その県道大垣-高須線の楡俣新田と中郷との間に、道の南側に2㎡の土地が2か所ある。これが勘右衛の馬除場である。

伝説によると、楡俣新田にすこぶる大力で、しかも親孝行な若者がいた。名を勘右衛と言った。人々は、牛にも勝る力持ちという意味で犢牛(こって)勘右衛と呼んでいた。時は、稲の取り入れ中の最中である。勘右衛は馬に稲を背負わせて街道を通行中、水奉行である多良の殿様の行列に出会った。途方にくれた勘右衛は、とっさに馬の四本足を担いで、高々と軽く路傍に差し出して行列をさけた。殿様は行列をさまたげないようにと必死に馬をかつぎあげた勘右衛の豪力に肝をつぶすほどの驚きようであるそれゆえ、その大力をほめ、又孝行を賞めて、この街道に限り、3か所の馬除場を許された。多良街道は、昭和八年に拡張工事が行われたが、馬除場は残された。その後県道の北側の馬除場1ヵ所は、水路の造成によって取り除かれた。

江翁寺には、勘右衛が谷汲山に参拝した帰りに持ち帰ってと伝えられる大石が2個ある。又楡俣小字松木は、勘右衛の家がこの地の松の大樹の下にあったので、付けられた家名といわれている。