明治33年に大槫川が締め切られたことにより、洪水の危険がしだいに遠のいていったが、村々を堤防で囲いきってしまっては、輪中内に水がたまってしまう。そこで、廃川となる大槫川に中江川や東江川などの排水路の水を集め、輪中の西南端に逆水留閘門を造り、揖斐川へ排水する計画が立てられた。この閘門は、揖斐川の水位が大槫川より低いときは開いて排水し、反対に揖斐川の水位が上がるとその水圧で閉まり、輪中内に水が逆流しない仕組みになっていた。この閘門は、明治36年8月に設置され、禹閘門とも呼ばれていた。禹は治山治水に努力した中国の夏の国の禹王からとったものだという。
ところで、禹閘門は揖斐川の増水が激しいと、何日も閉じたきりで排水ができず、水が輪中内の田にたまったままになることがあった。さらに年がたつにしたがって、閘門のはけ口に土砂が積もり、排水するのが難しくなってきた。また、閘門のあるあたりは、揖斐川と牧田川・水門川の合流点である。そのために年々土砂が堆積し、揖斐川の水位が上がってきたことも、樋門からの排水を困難にしてきた。この問題を解決するために明治42年に仁木排水普通水利組合は、禹閘門の北に蒸気排水機場を造った。さらに、大正12年から昭和3年にかけて、福束輪中普通水利組合は蒸気排水機場に代えて電気排水機場を造った。一方、禹閘門は年々老朽化が進み、大正10年に改築工事が行われた。新しく築かれた閘門は、レンガづくりで、たいそう堅固なものであった。