昭和24年、四郷地区に輪之内中学校を建設することになり、校地の造成が行われた。土盛用の土は、校地の一隅を二メ-トルほど堀り、その土を当てることにした。土器の発見は、この土掘り場であった。誰もが予想もしなかったところから、多数の土器が出土し、人々を驚かせた。当時の新聞は、「輪中地帯から古土器」「2000年前からの先住民族土着」と書きたてた。なぜなら、2000年も前は伊勢湾の入り海で、人間が定住するようになったのは、歴史時代になってからであろうとされていた定説をくつがえす弥生人の生活遺産の発見だったからである。
この土器の発見地は、それ以来県下の弥生式土器出土地としては、南限に位置する遺跡になった。この出土遺物のほとんどは、弥生式後期から古墳時代前期にかけての土器に限られる。四郷遺跡から出土した土器の形態は、つぼ形土器、小型つぼ形土器、長くびつぼ形土器、S字口縁台付かめ形土器、高坏形土器、器台形土器、鉢形土器が出土している。これらの土器の時代を形式的特徴からみて、焼成の時期は弥生時代後期末の欠山期以降のものばかりである。欠山期の型式に属するのが、つぼ形土器(1)・長くびつぼ形土器(3・6・7・8)である。つぎが元屋敷の型式に属するのが、つぼ形土器(2)器台形土器(4,5)高杯形土器(9)・S字口縁台付つぼ形土器(11・12)と思われ、また、小型つぼ形土器(13)高杯形土器(14)台付かめ形土器(15)小鉢形土器(10)はさらに時代が後の型式に属するもののようである。
なお、出土した土器の中には、大型のつぼ形土器がある。口縁部分が欠損しているので全容はわからないが、この土器で目を引くのは、焼成後に人為的に土器の底面に四センチほどの円形の孔があけられていることである。本来は物をいれるための器であるはずのつぼの底に孔をあけたのはどのような意図があってのことか知りたいところである。これらの土器は、死者の野辺の送りの儀式のときに、わざわざ日常用いていた容器に孔をあけ。現世の道具であることを断って供献の用としたものであろう。してみると四郷遺跡から出土した穿孔土器は、弥生時代の村社会において死者を葬る聖域と生活集落の境界にこの穿孔土器を置いた埋葬儀式に用いた祭器に使われた土器ではないかと思われる。残念なことに学術的な発掘がなされていないので、この土器の出土状況は全く不明であるのが残念である。出土した土器につぼ形丹彩土器がある。この土器は、埋葬儀式のときの祭器に用いられたと思われる土器で、こまやかなつぼ紋様がほどこされいる秀れた土器である。丹彩土器の赤い色をした色彩は、丹(に)という赤い土の酸化鉄で、赤色の絵の具になる。この絵具をへらで紋様をつけた土器のはだに刷毛でぬりつけたのである。この赤い土器にパレス、スタイルの名がついたのは、地中海のクレタ島の宮殿から見つかった美しい土器の色に似ているところから、パレス、スタイル土器、別称宮廷土器ともいう。四郷遺跡からもこの美しいパレス・スタイル土器が出土した。この土器の発見は、まれな例である。