今から500年前のことである。大洪水で中村(現在の安八町中)にある神明神社のご神体が大槫川を流れて、五反郷の川岸につかれた。なかなかお上がりにならず、やがて上大槫に着かれると機嫌よくお上がりになった。村人には中村に帰らないのでここに祀るようにという神様のお告げがあった。村人は洪水で苦しんでいたが、神様のご到着を大変有り難く思い小さな祠をつくりお入りいただいた。洪水でも何でもなかったから、とりあえずぞうすいを炊いてお供えした。
神明神社のお祭りをぞうすい祭りと言う。お着きになってこのかたお祭りにはぞうすいを炊く習慣があったと言い伝えられいるが、いつの頃からかなくなった。一方安八町「中」には、中村の神明様が洪水で四郷に移られたという伝説がある。そして、今も中の坊野というところに神明とか神明裏という地名が残っている。
さて、上大槫の神明神社は、上大槫村・上大槫新田(西の川)・五反郷村・五反郷新田四ヵ村の村社として、永正二年(1505に創られた。祭礼は以前旧暦6月16日であったが、近年新暦7月16日に改められた。更に社会の変化に伴い平成11年度より、神事を除いて7月20日、海の記念日に変更された。祭りは一時衰退しとても静かになってしまった。平成6年より県の生涯町づくりの指定事業を受け、再び活気をとりもどしつつある。祭りの総指揮は、四つの村の宮総代が相談して行った。祭りの数日前には総出で掃除をし、16日には神事が執り行われた。神事の前日には、25歳を頭とする青年団員が、太鼓櫓、提灯屋形、百八燈等の準備を当日の午前中までに終わった。五反郷村では、午後から舟山の準備をした。舟山は、村の漁師の三間船二艘に九尺四面の赤提灯を百個つけた三重の塔を乗せた。当日午後6時、村々から雨障子で葺いた太鼓屋形が太鼓を打ち鳴らし村の本通りを練りながら境内に入る。太鼓は滑車で櫓に上げ、備えつける。太鼓が打ち囃される。8時になるとぴたりと太鼓が鳴りやみ、大槫川五反郷記念橋より舟山の出発である。とっぷりと闇に包まれた大槫川、櫓の提灯が鮮やかに川面を映し出す。羽織袴の正装をした青年四人が太鼓と笛の打ち囃子を開始する。
四人の漕ぎ手によってゆっくりと孤を描きながら一時間で宮下につく。9時からは再び太鼓が打たれ、夜明けまで、白川、でんがらしが女装して酒を浴びた青年や近郊の参詣者により夜を徹して踊られた。この踊りは祭りの一週間も前から年長の青年に仕込んでもらった。当日は村々で朝から太鼓が打ち鳴らされ、家々ではうどんに小麦饅頭のご馳走で親戚の人をもてなした。神明神社周辺には夜店が所狭しと並び大変なにぎわいだった。次の日は山おろしと言って、青年により後始末が行われた。ぞうすい祭りは、
一年の豊作と平安を神様に祈る村の一大行事であった。