簡斎は、文化5年(1808)1月15日生まれ、名は敏昌、簡斎は号である。幼時に林博教について書史を学んだ後、旧名古屋藩の北川孟虎に入門し、更に尾張藩の和算学、関流の大家、永田有功について算術を専攻研鑽しその道を究めた。やがて有功の娘と結婚して永田敏昌と改姓し、尾張簡斎とも号して数種の著書を出した。彼は塾を開いて算術や漢籍を子弟に教えていたが、明治6年(1873)に小学校令が発布されると、自村の福束村謹節小学校をはじめ、近村の小学校算術の巡回教師として授業をした。その時の教科書として使用されたのが、福束小学校の蔵の「寛斎算艸」七巻、測内算法社中算法一巻等といわれる。
たまたま、明治8年地租改正の際、福束地区では簡斎の指導による新しい指導法による測量法で土地測量をして一回で官の検査に合格した。そのため近隣の村々からの測量法の伝授を委嘱され、門弟も四方に招かれて、その指導をして回り大いに便益を与えたと伝えられている。簡斎は、明治13年2月28日享年73歳で亡くなった。没後の明治35年9月、里・福束・南波・中郷・中郷新田・福束新田の門弟有志が相談して、頌徳碑を益法寺に建てた。