「堤外の川水の脅威に備えつつ、堤内の悪水を堤外に排出しなければならない」
このことは、江戸初期に輪中が完成した後、明治の時代に至る200年以上の時が経過しても、解決できていない難題でした。逆に言えば、輪中とはその課題を解決しきれない時代においての、人々の最高の対抗策であったとも考えられます。明治時代になると、ヨハネス・イ・デレーケによる抜本的解決に向けた大事業・木曽三川分流工事が実施され、木曽三川の流れを切り分けて整えられたことで洪水の脅威は格段に低減することとなります。
木曽三川分流工事における福束輪中整備の計画では、今まで輪中内の悪水を排水していた大榑川を閉めきり上流側半分を埋め立て、残る下流側の部分を揖斐川と接続する幹線排水路として活用することとなっていました。輪中から堤外に排出する際、堤外の水位が高いと輪中内に水が逆流して洪水をまねくことは以前と変わりないので、揖斐川の水位が低い時には開門して排水し、水位が高い時には閉門して逆流を防ぐ逆水閘門(こうもん)を設置することになります。この閘門は明治36年(1903)に福束輪中南端の大榑川締切提に完成し、黄河の洪水を治めたという中国の伝説上の王にあやかって禹閘門(うこうもん)と名付けられました。
しかし、この施設は輪中の排水施設として必須のものではありながらも、揖斐川の水位が高い間は排水できないもので、悪水をため込む時間が長びくほど水稲が腐るなどの被害が出るという古来からの課題を抜本解決できるというものではありませんでした。その上、排水口が設置された地点の揖斐川はちょうど川の合流点で砂が堆積しやすく水位が上がりやすい地形だったため、設置から15年も経つと平常時でさえ排水に支障が発生するようになり、閘門自体も老朽化も進んでいました。そこで、大正10年(1921年)にレンガ造り(2代目)に改築、同時に揖斐川排水口付近の排水路を掘り進んで流れを良くしました。2代目禹閘門は見た目も立派で大変頑丈なものでしたが、昭和19年(1944年 )の昭和東南海地震と翌20年(1945年)の三河地震で被害を受けてしまい、昭和27年(1952)にコンクリート製閘門(3代目)に全面改築され、現在に至ります。