岐阜県輪之内町 〜輪中が息づく平らな町〜

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貨物船の通行量は1日1000艘以上!

賑やかな舟運

輪中は周囲を川で囲まれている川中島であったため、川中島で生活する人たちは輪中の外に出かけるには舟を使う必要がありました。江戸時代の福束輪中の場合、村人は大垣、竹鼻、今尾の町に出かけたり、桑名方面に向けて年貢米や商荷物を川下げしたりしています。この際に使われる渡場(※土場ともいう。船着場のこと)は輪中に14ヶ所ありました。

輪之内エリアにあった渡場DATA
  • ■伊尾川(揖斐川)通:南波・福束(2か所)・海松・金衛(きんね)・塩喰
  • ■長良川通:楡俣・大藪
  • ■大榑川通:上大榑・五反郷・下大榑・海松新田・柿内
  • ■中村川筋:楡俣十連坊・西条

例えば大榑川にあった柿内渡場は、高須方面から大垣方面へ運ばれる川魚の中継地としてとても重要な港でした。この渡場は、魚籠を水に浸して魚類の死を防ぎ、大垣へ急行するというような役割を担っていました。江戸期、木曽三川沿いでは、このような舟運が盛んで、川港も多彩な活用がなされていたのです。伊尾川(現在の揖斐川)は周辺に川湊(かわみなと)が多い状況で、代表的なものでも大垣舟町湊、今尾湊、上流の北方村の森前土場、薮川筋の黒野土場、尾州領に3湊などがあり、大変多くの舟が行き来している状況でした。その数は、江戸時代末期になると、伊尾川流域で1日1000艘にも達していました。また、長良川通も舟運が盛んで、周辺の立花湊、上有知湊、長良湊、鏡島湊、墨俣湊などと往来していました。

活発に行き来する舟は暗い時間にも運航されることがあり、湊には常夜燈が設置されることが多くありました。また、例えば大藪渡場の場合、近所の輪中堤に高さ3mを越える黒船燈明(長良川堤防工事の際に水神神社に移設済み)が設置されていたため、暗い時間に大藪渡場に来る舟は、この明かりを目指して航行するといったこともありました。このように輪中周辺では舟を通じた運搬が盛んに行われ、他の湊から運ばれてきた物資(例えば薪や柴などの家庭用燃料)は輪中の湊に荷揚げされ、それを村人たちが買うといった生活が営まれていました。なお、渡場には常時1艘以上の舟と舟番人が常駐。それらの経費は百姓役(村費負担)でまかなわれており。村人によるインフラとして存在していたことが分かります。

大藪渡常夜燈(黒船燈台)

暗くなった時は、この燈明台のあかりを目標にして船を出していた。対岸の堀津にも、同じ燈明台が堤防の上に建てられていた。

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貧弱な道路が輪中内を網羅

地味な陸運

輪之内に大きな街道はなく、輪中内の村と村をつないでいたのは細い道でした。これらの道がどのくらいの幅であったかは、輪中内の江川にかかる橋から割り出すことができ、なんと幅3~4尺(0.9~1.2m)の道が大半であったことが判っています。また、こういった道以外に、堀田に向かう農作業用道路も江川と堀田のそばに張り巡らされていました。これらの道はさらに幅が狭く、人1人が通るのがやっとといった幅であったとみられています。道路にしても農業用通路にしてもこのような状況が続いたため、輪中内では江戸末期にいたるまで牛馬の活用もあまり進まなかったのです。なお、当然のことながら、輪中をとりまく堤防上の通路も、水害時・平常時問わず道路としての機能を果たしていました。

輪中において、道路や橋の改修は、すべて受益者負担でした。福束輪中各村の村入用帳(村の諸経費を記した書類)には道路修復の費用が計上されておらず、補修作業はある程度まではそれぞれの村人の作業として行うことで解決していたことが見受けられます。一方、大きな橋の工事や主要道路の大規模改修の場合は普請帳が作成され、輪中全体の村人が参加する普請(お金を集めての事業)が行われていました。

ご公儀も理解していた輪中地帯の大変さ

道路系の労役が免除されていた輪中地帯

江戸時代、幕府は全国に街道を整備し宿場を設けました。この宿場は、宿や食事処が整った単なる休憩地点ではなく、特に円滑な物流を行うための中継拠点として整備された「インフラ」で、問屋と呼ばれる役職者によって荷役を担う人や馬が整えられているような場所でした。この制度を運用するため、街道周辺の村人たちは役務として荷運びを担う助郷役(すけごうやく)を課せられるのが常でした。しかし、江戸期を通じて福束輪中の村々が常勤の助郷役(定助郷役)を課せられることはなく、和宮降嫁の大行列などの特別の命令を除くと、文政5年(1822年)から20年間に限って一部の村が中山道垂井宿の加助郷役(定助郷の補助)を担う範囲で収まっていました。中山道や美濃路といった公街道から比較的離れていたことが前提にはなりますが、当地が水害常襲の疲弊村であったことが道路行政を管轄する道中奉行にも十分に理解され、配慮されていたものと考えられます。

ヨハネス・デ・レーケにとって、日本の川は滝だった?

低地であるオランダ出身のデ・レーケにとって、川はゆったりと流れるものという認識があったそうです。しかし、山々に囲まれた日本の川は急流であることが多く、初めて日本の川を見たデ・レーケは「これは川ではない、滝だ」と述べた逸話もあります。

  • <1> 木曽三川の水運は非常に活発で、輪中の湊も大変賑わっていた
  • <2> 輪中内の道路は貧弱であり、江戸末期に至っても牛馬の運用が難しいほどだった
  • <3> 輪中地帯は水害常襲の疲弊村であり、道路行政の役務について幕府も配慮していた