岐阜県輪之内町 〜輪中が息づく平らな町〜

MANIACS 輪中マニアクス

中マニアクス

広さ約12㎢の閉鎖空間でもこんなに違う

上流側と下流側で
異なった農業事情とシステム

四方を水で囲まれた輪中の農業は水田の稲作が中心でした。しかし、輪中特有の事情から、その土地利用には特徴がありました。まず、下郷と呼ばれる下流方向の新田地域は稲作の割合が高い傾向がありました。水田率は平均70%程度、特に水田率が高い新田村々では96%に達しました。
一方、上郷と呼ばれる上流方向の村は下流側と比べて用水が不便な環境にあったため、畑作の比率が多い状況で、水田と畑の比率は概ね半分半分で、最も水を利用しづらい地域の場合は畑地が60~70%程度に達する場合もありました。

福束輪中用水懸樋絵図

水に囲まれているにも関わらず、上郷地域で水の入手が難しかったのは何故でしょうか?それは、十分に安全な強度を持つ樋門を輪中堤に設置して堤外の川から取水することが、当時の土木技術では極めて困難であったことによります。享保7年(1722年)、当時の南波村の揖斐川に面した堤に伏込んであった用水圦樋(いりひ)が大水で吹き抜け、輪中全体が水損で苦しむという事態が発生して以来、福束輪中では長らく用水圦樋が設置されることはなかったのです。このように、圦樋の建設は極めて限定されていたため、意外にも輪中の田んぼは天水待ち(降雨待ち)のものも少なくありませんでした。また、大藪村では積極的にため池が活用されています。
一方、下郷地域は海抜2m程度の低湿地であったため、上郷ほどの用水の不足はありませんでした。

この状況に変化があったのは1800年頃でした。掘抜井戸(自噴井)による灌漑農業が輪中内で普及し始めたのです。(掘抜井戸とは鉄製の先が鋭角の筒に竹筒を継いで、20間~30間と深く地中に差し込んで地下水が自噴する井戸。飲用と水田灌漑用水に利用されていました。使用しないときは鉄製のふたをして、鍵を掛けたと言われています。)元来、輪之内など木曽三川内の輪中地域は地下水位が高く、土中に深く竹筒を打ち込めば、常時水を噴き出す掘抜井戸を造ることが可能だったのです。これがあれば田畑の干害に備えることは容易で、常態的な水不足に困っていた上郷地域の農民は積極的に利用するようになりました。

堀抜井戸

ところが、掘抜井戸によって輪中内の水量が増えると、その余水が流れ込む量が過剰となった下郷地域で水田に水があふれて稲の根腐れが発生するなど、川の水によらない水害が発生するようになります。このため、上郷と下郷の住民の間では、役人が調停に入り、井戸の数や利用期間、上郷から下郷に対する補償(井戸1に付き米5斗を下郷に拠出する)など、細かな井戸利用の規定を設けて運用することになります。

このように、下郷は上郷ほど用水不足に困ることはありませんでしたが、江戸期後半からは上流から流れ込んでくる悪水(余り水)の処理が問題となっています。動力排水の手段が無かった時代、輪中内より水位が高いことも珍しくない堤外への排水は常時行うことは不可能だったため、川の水位の方が高いタイミングでは閉鎖し、川の水位が低いタイミングで開放する吐樋(はけひ)という施設を造ってこの作業を行いました。吐樋は輪中で最初に新田開発が行われた際に輪中内18ヶ村の悪水を集中して処理するためのものが大榑川右岸に設置され、以降、幾度かの改修を経て長く使われました。
この樋1艘(基)あたりのサイズを見ると、長さ41.1m、内寸幅が2.7m、同高さ1.2mのもので、これが7艘輪中堤を貫いて排水に用いられていたのです。また、堤外部分は二重構造になっていて、強度を高める工夫がされていました。また、18ヶ村の悪水処理用のもの以外にも各村で悪水排除の施設は設けられており、福束輪中で下流側となる揖斐川や大榑川に面した堤に30ヶ所以上設置されています。

福束輪中各村の用水関係設備天明9年(1789年)~明治5年(1872年)
  • <用水>圦樋(いりひ):計4ヶ所、ため池:計2ヶ所、掘抜井戸:計123本
  • <排水>吐樋(はけひ):計34ヶ所、水門:計1門

低湿地水田の工夫

耕運機にも掘り勝った
「鍬(くわ)」の一撃

輪中農業の肥料は、輪中が完成した頃は草・灰・屎尿といった農家が自己生産できるものが中心でしたが、江戸時代後半になるとより短時間で効率的に土地に栄養を供給できる金肥(油粕や干鰯(ほしか)など)を購入して使う様になっていました。この流れは輪中地帯に限らず、江戸時代中期以降に全国的に見られた傾向でしたが、特に輪中地帯の様な低湿地において金肥は有効であり、盛んに利用されていたのです。
また、江戸時代末期となると「どろこ種籾蒔(たねもみまき)」という手法が普及しはじめます。「どろこ」とは、溝や水路にある肥料分に富んだ泥をさらいあげて、それを苗床に使って苗を効率よく育て、幼苗まで育てて田に移植するという、輪中地帯で考案された苗代(なわしろ)技術でした。

当時使われた農具

また、農具においても輪中独自の発展がみられる様になりました。明治の前半に輪中地帯の農具は、重用されているものだけでも鍬(くわ)、備中鍬(びっちゅうぐわ)、呉以鋤(ごいすき)、小間浚(こまざらえ)、泥鰻(どろうなぎ)、尖備中鍬(とがりびっちゅうぐわ)、馬鍬(まんが)、草刈鎌、鋸鎌、埒掻(らちがき)、鋤簾(じょれん)、田舟の12種類と多岐にわたりました。さらに、それら同じ種類の道具でも、各輪中で形状やサイズが微妙に異なるということもありました。長い年月の中で、道具は輪中ごとの特徴に合わせて洗練され、それぞれ進化していたのです。

なお、輪中の農作業は、基本的には全て手作業でした。
他地域では牛馬を活用した作業が行われていましたが、輪中の中は深い沼田であった為、長らく牛馬の活用が進まなかったのです。それでも、江戸時代末期になると徐々に馬を飼育する者が増え、馬鍬を引かせて田掻きをする事などが増え始めました。
な戦後になると耕運機その他の機械農業が可能となり、輪中の農業生産力は大いに高まりました。しかし、他所の水田では十分に実力を発揮した耕運機でも輪中の水田では掘り起こしの深さが若干足らず、その深さにこだわる人は、引き続き鍬を使った人力で水田の掘り起こしに取り組むケースもありました。輪中の農業で使われてきた道具は、環境に特化して相当に洗練されていたといえましょう。

住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧

宝暦治水の責任者であった薩摩藩士・平田靱負(ひらたゆきえ)は公的な記録では病死だが、宝暦治水の責任をとって自害したとされています。そんな彼が残した辞世の句「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」には美濃のことが触れられており、いかに彼にとって宝暦治水で訪れていた美濃の地が大切であったかが想像に難くありません。

輪中特化型水田・堀田

日本にもあった
「舟を使う農作業」

水田の形態そのものにも大きな変化が起こります。
宝暦治水が行われた宝暦3年(1753)頃から新しいタイプの水田が輪中の中で広まるようになりました。水はけの悪い水田の土地改良として、水田の一部を掘り下げて泥土を確保し、稲を植える植え付け面の上にそれを盛り上げて植え付け面を高くした水田が登場したのです。この水田は「掘り揚げ田」という名称のもので、略して堀田(ほりた)と呼ばれました。
泥土を取り出す為に掘り下げられる部分は掘り潰れ地と呼ばれ、文字通りそれまで作付けをしていた水田を「潰す」行為であり、潰される水田の割合が4割にも達するものであったので、農民はもとより領主にとっても思い切った決断が必要となりました。

堀田が必要だったのは宝暦治水の大榑川洗堰工事によって水田の水かさが増す場所(現羽島市の桑原輪中)で対策が必要だったからですが、結果として堀田化することで収穫が増えることが判り、その後輪中全域に堀田は広がります。

堀田は、いわば畝(うね)が長く伸びた畑が水没し畝の部分だけが水面に出ているような見え方となり、それが視界一面に広がる様子は、輪中特有の情景となります。水の深さは場合によって1.5mに達するケースもあり、農作業には田舟(たぶね)と呼ばれる専用の小型の船が欠かせませんでした。
この堀田は明治以降も何回かの耕地整備を経て長らく使われましたが、戦後の土地改良事業で姿を消し始め、昭和50年(1975年)までに消滅しました。
なお、堀田で使われた道具等は片野記念館で見ることができます。

  • <1> 輪中での農業は上流側と下流側で立場が全く異なるものだった
  • <2> 中の伝統的な農業道具は、各輪中の環境に対応して洗練されていた
  • <3> 昭和後半まで、輪中には今と全く異なる農業風景が広がっていた