岐阜県輪之内町 〜輪中が息づく平らな町〜

MANIACS 輪中マニアクス

中マニアクス

輪中成立以前ってどうだったの?

尻切れトンボの堤防 
~荘園時代の事情~

そもそも、「土地」とは誰の持ち物なのでしょうか? 大宝元年(701年)に大宝律令で定められた班田収授制度では、土地は全て公有地でした。6年毎に実施される戸籍調べで6歳に達した男子には2反(約2000㎡)、女子にはその2/3の土地が与えられ、人々は土地に応じた租庸調(年貢や労役)を収めていたのです。しかし、天平15年(743年)、朝廷は「荒地を開墾した者には、その土地を自分の土地とすることを認める」という墾田永年私財法が発布されると、土地所有の事情は大きく変わりました。有力な貴族や寺院が農民を囲って開墾をどんどん進め、大規模な土地(後の荘園)の所有を進めるようになったのです。

こういった荘園は、輪之内においては平安時代の終盤・平治元年(1159年)に誕生した大榑荘(おおぐれそう)が初でした。以降、鎌倉時代には東に長岡荘、南北朝時代には南に二木荘が誕生します。これらの荘園の時代、輪中はまだ発達していませんでした。一つの川中島に自分以外の荘園や未開拓の荒地が存在している状況において、土地の持ち主が考えることは「自領の水防に役に立つ最小限の堤防を整備すること」だけだったのです。

荘園の分布

そのため、川中島の堤防は、主に荘園があった上流部分のみの整備にとどまり、未開拓であった下流部分の堤防は省略されていました。大水の際は堤防の無い下流部分から水が浸入してくる大変危険な環境でしたが、一方では、洪水と共に土地に栄養分が供給されるという側面もありました。荘園の配下にあった農民は、脅威と恵みに翻弄されながら、不安定な戦国の世を過ごしていたのです。

慶長期の福束輪中地方(推定図)

輪中は江戸幕府成立でもたらされた平和な時代の産物

耕し始めた人々、
輪中は江戸時代のフロンティア

関ヶ原合戦後、世の中が落ち着いてくると、農民たちは新田開発に力を入れるようになり、耕地の拡大が進められます。この頃の輪之内地方の南部は、大水の度に揖斐川や長良川の水が一面に満ちたものの、普段は広々とした草原と湿地でした。そこに目をつけた美濃国幕府直轄の代官・岡田将監善同(おかだしょうげんよしあつ)で、彼の息子や家臣たちが、担当地域を分担して農民の指導にあたりました。

善同は元和元年(1615年)に幕府から新田開発の許可を得て7年後に着工、2年後に新田開発を終えて検地を受けています。福束新田の誕生です。また、周辺でも熱心に新田開発を進め、元和7年(1621年)から寛永年間(1624年~)のはじめ頃に福束新田以外にも7つの新田村が開発されました。現在の輪之内の「〇〇新田」と名前がつく地域は、すべてこのごく短い時期に整備され、人が暮らす様になった新田村です。この時開発された8つの新田村の石高は5060石で、面積に換算すると5k㎡でした。

そして、この新田開発と合わせて大榑川の改修と堤防の工事が行われ、さらに耕地と集落をぐるっと囲む「切れ目の無い堤防」が築かれます。最初期の輪中にして、天領(幕府直轄地)ゆえに高度な水防技術が投入された福束輪中(大榑輪中とも呼ばれる)の誕生でした。 しかし、福束輪中のすぐ下流側や伊尾川(現在の揖斐川)を挟んだ中洲にはまだ未開墾地がありました。ここを名古屋の町医者・山内承玄と福束村の地主が開発を行い、輪中化します(大吉輪中)。それぞれ大吉新田、豊喰新田と名付けられました。特に後者は、周囲の川中島や川岸に次々に堤防が完成する中、堤外地の中洲に取り残される形になった塩喰村(しおばみむら)の住民が全員移住して入作したものです。

なお、寛永21年(1644)8月の「高須輪中村々普請入札申合証文」に大榑輪中・高須輪中という表現があり、この頃から当地で「輪中」という表現が使われはじめたこと、また、この頃は福塚輪中ではなく大榑輪中という呼び方だったことがわかります。

寛文末年 開発後の福束輪中
福束輪中の指揮者・岡田善同と義政

輪中の概念をつくった福束輪中の成立は美濃国奉行の岡田将監善同と善政の父子なくしては、成しえないものでした。家臣団や豪商を指揮し、新田開発を大榑川右岸形成とともに行ったことが左岸側の築堤にも大きく影響。この緻密な開発計画が河川氾濫の絶えない輪之内地域に大きな治水革命をもたらす礎を築きました。

そこに暮らす民は運命共同体

水と暮らす民の要塞
「輪中」のすがた

かくして、輪中による新田開発はここに完了しました。輪状の堤防を盾として水に囲まれた土地で暮らす人々は、たとえ所属する村が異なっても一心同体。早速、福束輪中では本村10ヶ村に新田村8ヶ村の18ヶ村がまとまって、治水共同体として輪中内の悪水(余り水)排除業務、堤防の保全、水害時の御普請願い(幕府への対策願い)を行う「輪中組合」を設立しました。ぐるっと周囲を囲む堤防が完成したとはいえ、それは土、石、木杭、竹籠などで築いたもの。また、輪中内からの排水手段も自然の力に頼らざるを得ない時代。人々の結束による、日常の地道な堤防補修作業や、水路の浚渫(しゅんせつ)など、きめ細やかな保全作業がとても重要でした。

では、生活基盤の維持にそれだけの労力を必要とする輪中事業の成果はどの程度だったのでしょうか?新田開発による福束の石高(収穫量)の変化を見てみると開発前を100とすると開発後は180(1万1343石余)で著しく向上したのです。町内の江翁禅寺(こうおうぜんじ)に水田開発の大恩人の観音堂があり、その偉業を称えられており、苦労に見合う成果であったことがみてとれます。

新田開発については、岡田将監善同の呼びかけによって岐阜や長良の豪商(中島両以ら)も出資して地主経営に参加するなどしていました。輪中内の地主経営は、最初は借金を抱えるケースが多かったのですが、石高の改善効果で2年もすれば十分な成果を挙げることも十分可能でした。同時に、輪中による新田開発は士農商が呼びかけあって行った一大新事業だったことも判ります。以降、木曽三川沿いには同様の輪中が増えていくこととなります。

楡俣村の有高と年貢納高(斜線部)
輪中の父・岡田善同はきしめんの生みの親?

岡田善同が名古屋城築城普請奉行時代に、部下が雉(きじ)の肉を平らな麺にのせたもの「雉麺(きじめん)」を謙譲しました。それを岡田善同は大層気に入ったとそうです。その後、平らな麺のみの形となり、それが「きしめん」と呼ばれるようになったとも言われています。

  • <1> 戦国時代までは尻切れ提しかなかった
  • <2> 輪中は平和になった江戸時代の収量増大事業
  • <3> 水防には壁の他に人々の結束がとても重要だった