輪之内周辺の地形は南西部の養老断層線に向かって深く落ち込んだ地形です。古来より網の目のように絡み合いながら当地を流れていた木曽川、長良川、揖斐川の三大河は、大雨のたびに溢れ、大量の土砂を南西部へと堆積させ、流路を変えることを繰り返していました。特に東側の木曽川による土砂が多かったのは、木曽川上流部にある御岳の火山噴出物や花崗(かこう)岩などの崩れやすい地質による影響が大きかったと考えられます。このため、濃尾平野全体においても木曽川流域に相当する東側から順に陸地化が進み、平野西部は長らく低湿地の状態が続きました。
輪中マニアクス
輪中イントロダクション
陸地のはじまり
陸地を作り出した三大河の氾濫
生活の始まり、河川内での孤立化
陸地から川中島へ、人々と
河川の戦いはここから始まった
今の輪之内町の地に集落が出来たのは弥生時代後半(3世紀前後)でした。発見された当時の集落(四郷遺跡)で暮らしていた人々は、まさに乱流する川の真っ只中で稲作を育んでいたと想定されます。 もちろん、人が居住するようになったからといって、川の流れが人に都合よく固定されることなどありません。川の流路は大洪水のたびにめまぐるしく変わり続けたことは、古文書、先祖の伝承、地質調査等の記録や証言からも明らかです。
たとえば、『一夜城』で有名な墨俣という地区があり、現在ではすぐそばを木曽三川の真ん中の長良川が流れています。しかし、実は、三川の一番東側にある木曽川が、墨俣の西側を流れていた時代もあり、しかもそれは墨俣一夜城の故事の少し前、せいぜい鎌倉時代~室町時代の出来事であったと考えられています。
木曽川は9世紀以降700年間にわたる度々の洪水によって西から東にどんどん移動しました。その過程で、中村川や大榑(おおぐれ)川といったいくつもの分流を生み出していました。同様の出来事が長良川や揖斐川でも発生することによって、木曽三川の周囲には複雑な流れと川中島が誕生する・・・現代の常識では考えられない自然活動が強固な護岸が築かれる数十年前以前の木曽三川の日常でした。
苦難の末、
辿りついた大河への対抗策
氾濫する大河と戦うための
要塞「輪中」の誕生
河川の氾濫から
輪之内町を守る輪中
そんな川と共に暮らすための人々の知恵こそ『輪中』でした。長い年月をかけ、自分たちが暮らす川中島に堤防を築く技術を磨き続けた結果、川中島の周囲を堤防ですっぽり輪形に囲った『輪中』がたくさん誕生し、川の中での生活文化が磨かれ続けました。
川の流路変更も、川の中の生活文化も、いまや昔の物語・・・ではありますが、現代からはにわかに信じがたいダイナミズムにあふれ、私たちの好奇心を刺激してくれます。そして、往時の人々が築き上げた堤防や水防施設、生活文化の痕跡は、実は今もそこかしこに現存しているのが輪之内。
さあ、輪中のマニアックな部分を紐解いて、木曽川周辺に存在した先人たちの暮らしを想像する旅に出てみませんか?
輪中の排水力1秒間に26t
25mプール(540t)なら、なんと20秒ちょっとで空っぽにしてしまう排水力。この力で、町を侵略する悪水を排除しているのだ。
- <1> 輪之内町がある場所は、川中島(川の中で孤立した陸地)での生活が当たり前だった
- <2> 輪中は弥生時代から続いた人々と木曽川・揖斐川・長良川との戦いの歴史
- <3> 輪中ができたことで独自の文化が形成された