岐阜県輪之内町 〜輪中が息づく平らな町〜

MANIACS 輪中マニアクス

中マニアクス

水害は無くならなかった

増えすぎた輪中が
もたらしたもの

輪之内の洪水史をひも解くと、輪中が完成して以降20年は洪水の記録がありません。輪中完成以降、飛躍的に収穫量が増え、洪水にも合わなかった福束輪中の人々は、張り切って農作業に励んでいたことでしょう。

ところが、慶安3年(1650年)、江戸前期最悪とも言われる濃州大洪水が発生して甚大な被害をこうむります。そして以降、江戸幕府が終焉を迎える226年の間で26回の洪水に見舞われることとなります。 元禄元年以降(1688年~)、木曽三川の下流域で次々に輪中が開発されるようになると、その発生頻度は目立って増えるようになりました。新田開発によって遊水地として機能していた草原や湿地が堤防で締めきられ、大水の時の水の逃げ場を奪うようになってしまったことが大きな要因でした。また、輪中の増加は、上流から自然に運ばれる土砂の堆積にも影響し、河道閉塞も起こりやすくなりました。

これらの環境変化については、輪中が木曽三川の中に10ヶ所できた程度であれば、それほど大きな問題とはならなかったのでしょう。しかし、1700年代半ばの木曽三川周辺は、大小100以上の輪中がひしめき合うという現代では想像もつかない状況になっており、一旦、水かさが増すと、どこかで必ず破堤するという環境になっていました。過度の自然改変による大規模災害発生は現代では珍しくないことですが、江戸時代前期から木曽三川で発生するようになった洪水も、類似のものでした。

洪水ヲ克服セヨⅠ

元禄年間の治水

耕地増加によって年貢や米収入が増えることから、新田開発を奨励してきた幕府や諸藩でしたが、増加する水害に対して手立てが必要となっていました。

元禄12年(1699年)から同14年(1701年)にかけて木曽三川では多数の洪水が発生。この時、「公儀堤普請」で堤防が補強されています。これは、幕府による直轄の土木工事で、冠水によって収穫を失った農民に収入を与える意図も含むもので、現代の巨大災害における政府主導の公共工事と通じる意味をもつものでした。

また、幕府は元禄16年(1703年)~2年にわたり、木曽三川流域で大規模な治水事業を行っています。

さらに、宝永元年(1704年)~2年にかけては、木曽三川流域の川々の流れの障害になっている草、木、竹藪、小屋などを取り払う普請が美濃・伊勢両国で一斉に行われました(宝永の大取払)。この時、揖斐川の川中島にある家屋(80年前の輪中完成時、全住民が移住して廃村となった旧塩喰村に残されていた40軒)も撤去されています。これらは旧住民が野良仕事用の小屋として残しておいたものだったのでしょう。以降、この場所に家屋が建てられることは今日までありません。

宝暦治水は効果なし?

1753年(宝暦3年)に徳川幕府が薩摩藩に命じて着工された宝暦治水。薩摩藩が1000人近い藩士らを現地に派遣し、その工費95%負担された言われる江戸時代最大の治水。その効果は目に見えるものであったものの、幕府の見識不足により、「あまり効果がなかった」という記述が一部残っていますが、これは大きな間違いです。幕府は設計上の効果検証のためにあえて堤を作らなかったエリアだけを見て、そのような認識をしてしまったそうです。

洪水ヲ克服セヨⅡ

宝暦お手伝普請 
~薩摩藩の苦闘~

元禄年間の治水事業から半世紀。宝暦3年(1753年)、幕府は木曽三川の水害多発を解決する木曽三川流域の大治水工事計画を練り、御普請(幕府直轄事業)として行うこととしました。絡み合うように合流・分流している木曽川・揖斐川の分流をはじめとする複数の大工事が含まれる巨大規模なもので、その工事費は計画では9万3300両、担当の勘定奉行の予想では14.5万両に達する可能性のある空前の規模のものでした。そして、この事業のお手伝いを命じられたのが九州の大名であった薩摩藩でした。

御普請のお手伝いは、お手伝い役の大名が工事費の90%を負担するというものでしたから、薩摩藩の驚きはたいへんなものでした。しかし、幕府の命令に逆らうこともできず、薩摩藩は家老・平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として、藩をあげてこの難題に挑みます。幕府の予想とは裏腹に藩財政が苦しかった薩摩藩は大坂で22万両の借金をし、藩内では藩費節約などで予算をやりくりし、最終的には藩の年間の年貢米収入に匹敵する40万両もの巨費を木曽三川工事に拠出することになります。これだけの巨費を1藩が負担したお手伝い普請は他にはありませんでした。なお、宝暦4年(1754年)2月から開始された工事で、薩摩藩が現地に派遣した家臣は合計947人。工事区域は愛知、岐阜、三重に多く広がるだけでなく、次々と追加され、さらにはたびたびの工事で、完工箇所の災害復旧もしなければならない過酷な状況でした。

寛文末年 開発後の福束輪中

薩摩藩は輪之内付近でおよそ40件にのぼる工事を担当、その中には長良川の水が大榑川に落ちるのを制限する洗堰(あらいぜき)設置工事といった大変な難工事も含まれました。洗堰とは、通常の堤防よりも丈の低い堤防を造るもので、平時は通常の堤防同様に機能して、川の流路通りに水を流しますが、大雨などで水かさが増した状態になると、他の堤防よりも低い丈を活かして大榑川に水を引き入れて長良川の水位を下げ、洪水を防止する役目を持ちます。また、大榑川に導水する際に流れ込む水の勢いを抑制し、下流域の水の流れを穏やかにする機能も持っていました。薩摩藩はこの複雑な工事をもやりとげ、大榑川洗堰は完成し、川下住民の水の脅威を大幅に低減することに成功します。他方、大榑川に流れ込む水が少なくなったことで常水位が高くなった長良川対岸などでは水害が増えるなどもあり、流域全ての水害に好影響を与えることはできませんでした。

明治木曽川下流改修前の薩摩堰

長良川右岸落口の洗堰

この巨大工事において、工期遅れの責任負担や幕府役人への抗議として薩摩藩士53名が工期中に割腹、病死者も合わせた薩摩藩の犠牲者は85名にのぼり、家老・平田靱負も工事を完遂したのち、自刃しています。これら薩摩義士を讃える墓があり、現代においても献花が絶えません。

薩摩堰遺跡

宝暦治水事業で犠牲になった薩摩藩士のうち町内のお寺に葬られている8人の霊を慰める「薩摩堰治水神社」が昭和55年9月に建立。

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洪水ヲ克服セヨⅢ

明治木曽三川分流工事

宝暦のお手伝い普請から100余年。薩摩藩による治水事業は木曽三川下流域に多大な恩恵をもたらしたものの、その後、土砂の堆積により、再び水害は毎年の様に起こるようになっていました。明治13年(1881)、資材を投じて輪中提の修理・増築に注力してきた片野萬右衛門が周辺7郡の代表者と連携して「治水共同社」を立ち上げ、木曽川水系改修工事の実現に向けて国・県に強く働きかけを行い始めます。

それに先立つ明治6年(1873年)、政府の招きでオランダ人の土木技師ヨハネス・イ・デレーケが来日していました。彼は明治11~16年にかけて木曽川水系改修工事の現地調査をおこなうのですが、福束輪中周辺調査の際に案内役を務めた片野は、自身の治水事業の経験をもとに大榑川の締め切りと三川分流の重要性、さらに輪中のたまり水対策についてデレーケに強く訴えています。当初、分流工事においては「木曽川のみを分けるべき」と考えていたデレーケでしたが、最終的には三川の完全分流が必要であること、また、輪中の排水が必要であることを組み込んで改修計画を作りました。
その後、デレーケの近代科学をもとにした合理的な計画にそって分流工事は着手されます。

デレーケ

片野萬右衛門

デレーケによる分流工事(全4期)
  • 第1期:明治20年(1887年)~28年(1895年)木曽川、長良川を分流。
  • 第2期は明治29年(1896年)~32年(1899年)海津町以南の長良川、揖斐川の改修と、大榑川、中村川、中須川の締め切り工事。
  • 第3期は明治33年(1900年)~38年(1905年)揖斐川筋の海津町から上流部の改修。
  • 第4期は明治39年(1906年)~44年(1911年)揖斐川、長良川の河口を分水する工事と浚渫。

下流改修略図

福束輪中の工事としては、大榑川の締め切りと揖斐川左岸堤防の新築が一大事業であった締め切り工事は明治33年(1900年)の秋から始まり、翌2月には完成しました。これにより、老朽化が進んで毎年のように小破・大破を繰り返し、輪中組合が修理に奔走していた洗堰や大榑川堤防は締め切られた大榑川の上流部とともに埋め立てられることとなりました。また、福束輪中の北側では、同様に中村川も埋め立てられ、輪之内は北・南の隣町と地続きとなりました。

この工事で長良川・揖斐川の流れが分けて整えられるようになり、以降、木曽三川周辺での洪水発生状況は大いに改善されることとなり、木曽三川の輪中地帯の安全性は飛躍的に高まりました。さらに福束輪中下流部には蒸気機関による排水機場が設置され、輪中内の悪水(余り水)の動力排水が可能となると、これまでの排水不良による稲の腐敗も大幅に低減し、福束輪中の生産量は飛躍的に高まることになります。

一方、薩摩義士が甚大な犠牲を払って建設した大榑川の洗堰等は、残念ながらこの時の工事で埋められて見ることができなくなり、現在では薩摩堰遺跡、治水神社がその場所を教えてくれます。
また、デレーケに熱心に意見して、輪之内の開発に貢献した片野萬右衛門の顕彰碑(けんしょうひ)が長良川右岸の大藪に、その子孫宅が片野記念館として輪中・輪之内の歴史を伝えています。

片野萬右衛門の顕彰碑

片野萬右衛門治水の功績が称え、顕彰碑が輪之内町の大藪大橋の上流、長良川右岸堤防の横に建立されています

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  • <1> 輪中地帯における水害多発の要因のひとつは、増えすぎた輪中そのものだった
  • <2> 輪中の誕生から40年後には、幕府による新たな洪水対策の事業が必要となっていた
  • <3> 大藩の1年分の予算と多大な犠牲を費やしても、抜本的な洪水解決には至らなかった
  • <4> 明治期に入り、オランダ人技師の能力と、地域で治水に取り組んできた人々の意見によって、洪水の脅威は大きく低減した