岐阜県輪之内町 〜輪中が息づく平らな町〜

MANIACS 輪中マニアクス

中マニアクス

自然の猛威への対応

近年まで脅威の連続だった輪中

輪中の誕生から電気排水設備を経て、自然の猛威に対応してきた輪之内。しかしながら、自然の猛威自体がなくなることはないため、近年まで数々の脅威にさらされてきた。その災害の歩みを見てみよう。

輪之内空撮
河川が氾濫により冠水の脅威にさらされるも、輪中の内側への侵入を一切許していないのが、この写真からは良く分かる

昭和27年(1952年)ダイナ台風

輪之内町の輪中の
強さを証明した台風

輪之内町の堤防が切れることはありませんでしたが、豪雨によって町内の水田一帯が水浸しとなり、特に低地にある下郷地区の水田の湛水はひどい状況でした。また、隣町である海津郡海西村(当時)の長良川堤防が決壊し被害が出たため、輪之内の消防団員がいち早く応援に駆けつけています。

昭和34年(1959年)8月 台風7号

堤防崩壊寸前まで
追い込まれた歴史的被害

集中豪雨が揖斐川・牧田川上流に600mm超の大雨を降らせ、輪之内の揖斐川堤防の上すれすれまで水位が上昇し、南波排水機場工事現場の仮堤防が危険となりました。また、揖斐川左岸堤防の各所に亀裂が入りはじめ、特に福束橋南の堤防は60mにもおよぶズレを発生させて崩壊寸前となるほどでした。消防団や一部住民の必死の杭打ち・土嚢積み作業と並行して住民の避難が進められていたところ、対岸の養老郡で多芸輪中の堤防決壊によって川水がみるみる1m以上低下し、輪之内側での堤防決壊は免れました。しかし、堤防の損傷は激しく、近くの田畑や家屋は大きな被害を受けました。また、対岸の堤防決壊による川の急激な水位低下で川底があがり、その反動で周囲の地盤が一気に沈下。揖斐川堤防沿いの家屋の大半が全半壊する被害が発生しました。なお、対岸の堤防が崩れる際、その岩が崩れ落ちるような音は輪之内側にもはっきりと聞こえていました。

昭和34年(1959年)9月 伊勢湾台風

1ヶ月前の豪雨から間もなくして
襲われた空前規模の台風

日本史に残る空前の規模の台風で、木曽三川は洪水状態となります。同年1952年の8月に起こった豪雨の傷も完全に癒えない状態の南波提では水位30cmの越流が始まりました。それと呼応するように、揖斐川堤防の各所で再び無数の亀裂が入り、住民の避難と消防団による必死の水防活動が始まりました。この時も、堤防の大崩壊寸前で再び対岸多芸輪中の堤防が切れて川が減水することが起こります。一方で、たくさんの川に囲まれた川西地区では堤防上30cmを超す越流にこらえきれず、6か所にわたって堤防が崩れ、塩喰・福束地区を中心として、輪之内でも大きな被害が発生することとなりました。

昭和36年(1961)6月 三十六・六豪雨

10日間の豪雨により、町内全域を泥海化

10日間以上にわたって降り続いた雨で町内全域が泥海化した上、長良川、揖斐川、牧田川で警戒水位を超えて堤防十数か所に漏れ水など危険な兆候が顕れました。町水防本部は水防警戒体制をとって危険個所に対して町をあげて水防活動を実施し、破堤の被害発生をくいとめています。しかし、町の洪水被害は甚大で、電気排水機が連日フル稼働で排水をしたにも関わらずなかなか減水できず、道路、橋、水路の他、水田や住宅の被害も大きいものとなりました。

犀川事件①原因

1922年(大正11年)に計画された国の治水計画で安八郡墨俣町の輪中堤を切断しするものがあった。この計画が実行されると安八郡の治水が悪化する恐れがあることから、安八郡は国との対立を強めていった。時代背景として大正デモクラシーで住民たちの政治への関心が高まっていたことも犀川事件に発展した要因のひとつとして考えれます。

昭和51年(1976)9月 九・一二水害

先人の知恵と最新技術に守れた輪之内町

台風17号による過去最大級の記録的な大雨により、長良川では警戒水位をはるかに超える8m近い高水位となりました。台風情報をキャッチしていた輪之内消防団は、連日の大雨の中万全の体制で警戒にあたり、危険個所発生の報が入るや否や、早急に補強を行うなど必死の対応をしていました。ついに避難命令が出るも、徐々に水位は下がり、災難を乗り越えたと思われた頃、輪之内上流部の安八町で長良川堤防が決壊し、濁流が流れ込んできているという一報が入り、町内でも再びの避難命令を知らせるサイレンがけたたましく鳴り響きました。

消防団と地元民の必死の作業によって長良・揖斐両岸の現代堤は守られたにも関わらず、上流側の安八町内を通って濁流が押し寄せてくるという想定外の事態に見舞われます。通常であれば、なすすべなく濁流にのみこまれる状況です。しかし、安八町と輪之内町の間には、かつて両町の間を流れていた中村川に面した「福束輪中提」が残されていました。この時、両町が陸続きになってから既に80年。無用の長物とされ、輪中地帯各地で撤去が進み、福束の輪中提でも十連坊と南波で道路部分がカットされていた状態でしたが、輪之内の消防団員、町民、そして応援にかけつけた下流域高須輪中および大垣市消防団の不眠不休の活動によって切通しが封鎖され、文字通りの「堤防」として活用されたのです。結果、江戸時代の堤防は現代提を破壊した水流の大半を見事に防ぎ、輪之内を大洪水の被害から救いました。

この時、禹閘門付近で10年前に更新された電気排水機がフル運転を続けていたことも忘れてはなりません。輪中上流部で最後の防衛ラインの輪中提が水を食い止め、内側では全国で5指に入る出力を誇る電気排水機によって水を排出していました。そして何より、幾度もの災害を乗り越えた危機意識の高い輪中住民の意識によって、未曽有の被害は食い止められたといえましょう。

犀川事件②国の計画を見直させた住民の力

1929年(昭和4年)に治水計画で不利益を受ける安八郡墨俣町を中心とする7町村が国に異議を申し立てる。各町村の住民が団結したことで、警察が600人も出動したと言われており、さらに事態収拾するために陸軍も出動する大事件となりました。

  • <1> 木曽三川の水運は非常に活発で、輪中の湊も大変賑わっていた
  • <2> 輪中内の道路は貧弱であり、江戸末期に至っても牛馬の運用が難しいほどだった
  • <3> 輪中地帯は水害常襲の疲弊村であり、道路行政の役務について幕府も配慮していた